夜中の一時半。ティアルは、やっとその日――いやその前の日からの任務を終え、床に就くところだった。軍人たちは、もう三時間前に床に就いている。
ザノア帝国の軍隊に所属するティアルは、いわば下っ端だ。毎日、格上の軍人に雑用を押し付けられる。召使いに近いかもしれない。ただ、それより条件は悪い。
「よおティアル、やっとおやすみかぁ?」
隣から声が聞こえてきた。トランプの音もする。
「はい。お疲れ様です」
ティアルは思いっきり嫌な顔でそう答える。どうせ顔は見えない。
この人たちは、自分が報酬ももらえない仕事(仕事をしないと命をとられかねない)を淡々とこなしている間、夜更かしをしてポーカーなんかやっているのだ、いつものことだが、軍人としての意識はないのか? ティアルは聞こえないように浅くため息をつき、疲れた身体を横たえると、浅い眠りについた。
夢を見た。
さっきポーカーをやっていた軍人たちが、自分に向って石を投げてくる。自分は、自分でもよくわからない言い訳をしながら、冷たくなった手で頭だけは守っている。そこへ、誰かが――顔は知らないが、でもおそらくどこかで見たことのある人が――現われて、自分の前に立ちはだかる。彼が現れると、軍人たちはおびえて、石を投げるのをやめ、どこか遠くへ逃げて行く。彼は自分に微笑むと、ふわっと見えなくなる。手は暖かくなっていた。
「起床――、起床――」
上官の軍人が眠そうに号令をかける。ティアルはまどろむ瞳を無理して開けると、ゆうべポーカーをやっていた軍人たちのほうを見た。彼らは、机を囲んだまま、まどろんでいた。逃げ出すそぶりも、石を投げるそぶりもしない。
ティアルは安心して、夢か、と呟いた。
そこへ、余計な肉のついた手が飛んできた。
ティアルが五メートルくらい吹っ飛ぶ。
周りの軍人たちは、にやにや笑って見ている。
なんだ、まだ寝てたのか。あいつまた寝坊だぜ。こりないのかねえ。まったく、あのなまけ者め。・・・・・・。
ティアルを吹っ飛ばしたクロン上司が、さらにティアルの頭を足……正確には靴で、押さえつける。
「きさま、ヒッターのくせにおれたちと同じ時刻に起きるとは。よくもぬけぬけと寝ていられるものだな」
しかたないさ、ヒッターはヒッターでも、所詮は雑用をするだけの落ちこぼれ。そうそう、ヒッターの本当の任務を知らないガキだ。・・・・・・。
ティアルは靴の下でうめいた。石より痛いかもしれない。上司の体重がかかっているからな……。
「謝罪の言葉もないか、え? このやろう」
上司の足、いや靴がまともに腹に入る。さらに飛ばされてうめきながら立ち上がると、今度は首を押さえられる。
「さっさと働け」
ティアルは唇をかんだ。こんなよく肥えた上司に、働けなどと言われたくはなかった。
「おちこぼれヒッターのくせに」
仕舞いには部屋から追い出され、朝食も抜きだった。
朝から働け、働け。夜遅くまで駆り出されるわりに、なまけ者と笑われる。最近、まともに飯を食ったのはいつだったろう……。
ヒッターという立場は、優秀であれば高く評価され、一応人間としての人権なるものは守られる。だがほかのヒッターに劣っていたり、任務を遂行した経験がないヒッターは、雑用をやらされる“下っ端”に他ならない。下位ヒッターと呼ばれる立ち位置だ。
ヒッターというのは、軍や帝国に都合の悪い者を、世間に知られることなく消す使命を持つ、“暗殺者”だ。軍の一番暗い部分を知ってしまうこの立ち位置は、へまをやれば機密保護のために即刻抹殺される。優秀なヒッターであれば使い道があるが、それ以外のヒッターでへまでもしたら、生き残る確率は無に等しい。
ただティアルの場合、上司のいじり対象なのでそこまで重い任務を任されることはない。だから寝坊もできるわけだが、睡眠時間が少なすぎるのは、十四歳のティアルにはかなり応える。
「ティアル、またあの太上司に蹴っ飛ばされたんだってよ」
廊下の掃除をしていると、通る軍人たちの会話が聞こえてくる。
「まあ命の危険は少ないから、気楽な奴さ」
「若輩だもんな。まだ暗殺の任務を課すには若すぎるんだろう」
ティアルはこういう地味な仕事が多い。命の危険がない代わり、生きがいというようなものもない。ティアルは記憶がある範囲内では軍を出たことはなく、ずっと、ヒッターというのは名ばかりの奴隷だった。
だからだろうが、ティアルには感情がない――怒り、憤り、そんなものも覚えた時期はあったろうが、今となっては何に対しても感情が動かなくなった。
「まあ幼いころから訓練はしてるんだ、そのうち優秀なヒッターとして立てられるんだろうな」
「ティアルの動き、見たことあるか? まるで風のように舞い踊るんだ」
さっきとは違う軍人たちの会話だ。ティアルは、かなり厳しい訓練は受けている。だが実戦はない。
どうせ、奴隷止まりだろうさ……。
ティアルはいつもどおりの地味な仕事を淡々とこなし、その日も暮れて行った。
その頃、軍の中心部では――。
「あのヒッター、ティアルのことだが」
参謀長官、シュアルがティアルのことを話題に上げていた。
「あのクロン隊長の下にいるヒッターですか。可哀そうに、今日も蹴られたらしいですね」
言っていることと顔の表情がまったく違い、なんだか楽しそうに話すのはシュアル参謀長官の補佐、アフェカ。
「しかしシュアル長官、あんな小僧がどうかしましたか」
「アフェカ長官補佐、小僧と言うな。あれは私も気に入っている」
「そうでしたか。これはこれは」
「ティアルは、かれこれ八年間ヒッターとして軍に所属している。実力も十分だろうから、今度の暗殺はあいつにやってもらおうと思ってな」
「いきなり実戦ですか。危険なのでは?」
「実戦に臨ませなければ成長が止まってしまう」
「長官、それでしたら」
アフェカがなにか耳打ちすると、シュアルは、おお、と感嘆の声を洩らす。
「それは良いかも知れん。よし、さっそく事を起こせ、アフェカ」
「承知」
アフェカが部屋を出ていくと、シュアルは席を立ち、窓に向った。
「楽しみだな。ティアルの成長が」
ティアルは掃除を終え、料理を運ぶのを手伝っていた。そのとき、一人の軍人がふざけてティアルに足をかけた。
「!?」
ティアルは転びかけたが、一回転して元の姿勢に戻った。料理が上にすっとんでいたが、それもきちんと受け止め、また平然と歩きだした。周りの軍人は、何が起きたのか分からないのもいれば、ティアルの動きに感心した者もあった。
「おい、待て」
足をかけた軍人は、面白くなくてティアルを引きとめた。
「謝ったらどうだ? 俺の足に引っ掛かっておいて、無視はねえだろ」
するとティアルは、料理をテーブルの上において、言った。
「あなたが足を出したのだと思いますが」
「なんだと?」
「おれは、何もないところじゃ転びませんし、転ばされても転びませんよ」
軍人はティアルに激しく憤って、その胸ぐらを掴んでどなり散らす。
「それが軍人さまに対する態度なのか!? きさま、ヒッターの分際で・・・・・・」
と、殴ろうとした軍人は、自分が宙に浮いていることに気がついた。
「本当のことを言っただけです」
ティアルは軍人を背負い投げすると、また起こしてあげようと手を出した。
「すみません、訓練のせいか、反射的にこうしてしまうんです」
軍人は背中をこすりながら、ティアルをにらみつけた。ティアルのほうは、いつもと変わらない態度で、手を差し伸べていた。
「ティアル、こちらへ来い」
ふと、後ろから声がかかる。アフェカ参謀長官補佐だ。
「アフェカ様?」
ティアルは少し驚いた様子で、言われるままそちらに向かった。軍人は、アフェカを認め、自重するというより唖然としていた。
アフェカはティアルを面白そうに見つめ、肩に手を置いた。
「君、なかなかやるね」
「………? え?」
「さっきの技、見事だったよ」
「あ、はい……光栄です」
アフェカはティアルを食卓の外に連れ出すと、話を切り出した。
――君に、任務を与える。
翌朝、ティアルは初めて見る部屋に寝ていた。
「う……?」
「気がついたかね、ティアル」
目の前にいるのは、アフェカ補佐。
「よく眠っていたね。今何時だと思う?」
「え……ええっと……」
時計を見たティアルは、あわてて身を起こした。とっくに軍人たちも起きて、普段なら廊下掃除をしているところだが、なぜか自分は今高官と一緒にいる。
「ここは?」
ティアルはアフェカに、眠そうに聞いた。
「わたしの部屋だよ。昨日一晩、君をここに泊めたんだ」
「そ……そうでした…っけ?」
アフェカはくすくす笑う。
「覚えていないのかね。君に任務を与えたんだ。今日からは、雑用なんかじゃなく、囚人の世話をしてくれと」
囚人の世話……。
「君も知っていると思うが、軍人たちはプライドが高すぎてね。囚人に対する態度がひどすぎる。それに引き換え、ティアル、お前は誰に対しても同じ態度をとれる。それで、任せることにしたのだ」
ああ……。そうだ。思い出した……。
「では早速、任務にあたってくれ。ああ、囚人に話しかけられたら、できるだけ相手をしてやれ。ストレスがたまると、脱走しかねないからな」
「承知」
ティアルは少しやる気が見える眼で敬礼すると、パッと部屋を出て行った。
ティアルが担当になったのは、聖職者たちにあてられた牢獄、通称「聖獄」だった。
「お? だれかねあの若いのは?」
「この前の軍人よりは、ましかもしれませんな」
ティアルが入っていくと、交代を待っていた軍人が鍵を投げてよこし、ずかずかと出て行った。ティアルは敬礼したが、軍人は見ていないようだった。
鍵を受け取ると、ティアルはどの鍵がどの扉に対応しているかをチェックして回った。彼は、ひとりひとり何らかの声をかけて、自分に慣れてもらおうとした。
「今度のお若いのはいいな。分別がある」
「そうですな。本当に」
ティアルの人気は上がっていた。
ティアルはいつもの癖で、掃除をしていた。獄中はかなり手入れが甘く、ティアルにしてみれば、掃除してるのかこのやろうと言いたくなるくらいだった。
「お若いの。名は何と言う」
囚人の老聖職者が、話しかけてきた。
「はい、ティアルと言います」
「歳は?」
「十四だと思います」
老人は、ほうと息をつき、隣の男に話しかけている。
「………?」
ティアルは、自分が腕に付けられた刻印を見たのだと思った。やはり高慢な軍人でなく、ヒッターだと分かれば、話しかけやすいのだろう。
ヒッターの服装は軍の規定で決められており、軍人の制服とは違って肩から腕を露出する格好になっているので、ヒッターの証である刻印がはっきり見て取れる。ティアルは記憶がある中では軍を出たことはない。
幼いころからヒッターとして見込まれ、育てられてきた。いつ、この刻印が押されたのかは覚えていない。ただ、いまだに刻印を押されて、痛さのあまり叫んでいる新人をみると、無意識に自分の右肩に手をやってしまう。
囚人たちを見渡すと、もともとはかなり高価な服を着ていたように見える。ながい獄中生活ですり減ってはいるが、元聖職者と言わずとも貫禄がある。そういえば、聖職者が軍に捕らえられるというのは、どういう現象なのだろう。
ティアルは知らなかったが、ザノア帝国は昔から神を信じる者たちを排除し続けてきた。ヒッターに課される暗殺のほとんどは、政治家など世間によく知られている人物の中で神を信じる者を、世間に知られることなく消す――という任務が多いのだ。
さっき声を掛けてきた老聖職者は、まだ隣の男と話しながらティアルのほうを気にしている。彼は獄中で一番年長のようだった。
「ティアルとやら。前にどこかで、会ったことないかね?」
ティアルは掃除する手を休め、老聖職者のほうを見た。見覚えは、ない。
「ないと思いますが……」
「そうかね。しかし、よく似てるもんじゃ・・・・・・」
老聖職者は、なにか意味ありげなことをつぶやき、隣の男とまたしゃべり始めた。ティアルは、また掃除を始めた。
昼食の時間になり、囚人用の食事が運ばれてきた。運んできたのは、ティアルと同じヒッターの地位にある者たちだった。彼らは、自分たちと同じヒッターが囚人の世話役になっているのを見て、怪訝そうな顔をした。
何も言葉を交わさずとも、彼らの心境はティアルには痛いほどわかった。ティアルは彼らに敬意だけでも示そうと、敬礼をした。が、彼らは食事を置くとさっさと去ってしまった。
「お若いの。やはりどこかで、わしを見なかったかね?」
ティアルは後ろから飛んできた老聖職者の言葉にはっと我に返る。
「あ、すみません、今持っていきます」
食事を運んでいると、囚人の若い一人が驚いたような声を出した。
「運んでくれるのか」
「え? はい……」
「こんなのは初めてだ。いや、あなたはなかなか、いい人だ」
ティアルがあれっと思って首をかしげると、あの老聖職者が言った。
「軍人は自分で取れと言うばかりで、何度も土下座をしなければもらえんかったのだよ」
「そうなんですか」
ティアルは不思議なものだと思いつつ、囚人たちに食事を配っていた。
おれに任されたのは囚人の世話だ。食事を運ばないとしたら、ほかに何の世話があるのだろう? 風呂か? 掃除か? 軍人は、何もしていなかったのでは……?
あれ。もうひとつ、今違和感があった。
「こんなのは初めてだ」と言われたことに対する疑問は、今考えた。
あとは。
そうだ。「いい人だ」と言われたことに対する違和感だ。
何が変だったのだろう?
そう言った囚人のほうを見ると、ティアルのことを見ていた。ちょうどいいとばかりに、ティアルは彼にもう一回言ってくれと頼んでみた。
「いや、だから、こんなのは初めてだから、あんたはなかなかいい人だって言ったんだよ」
彼はさらっと言った。
――おれが、いい人だと。「人」だと言った。
「おれを、人と言いました?」
「え? ああ、言ったよ」
ティアルは、なんだか底知れぬ何かを感じた。何かはわからない。ただ言葉にしようのない気持ちが、胸の中にあふれ出してくるのがわかった。これを喜びというのだということは、かなり後になって知ったことだ。
ティアルは、ヒッターとして扱われてきた。今までは奴隷同然だった。人として扱われた記憶がないのだった。それが、今何気ない彼の言葉で、自分は生きていてもいいのだという、確かな根拠はないがすこしの安心感を、得られた気がした。
老聖職者が言った。
「ティアルといったか。お前さん、わしをどこかで見なかったかね?」
ティアルはやはり、見覚えはないと答える。老聖職者は、残念そうにうなだれた。
「おかしいのう。わしの記憶が正しければ、あの子ももうそろそろ十四歳なのだ」
そのつぶやきを、ティアルはこの時は気にも留めずに聞き流していた。
でもよく考えればわかることなのだ。聖職者の言う「あの子」が血縁なのか知り合いなのかはわからないが、そんな子が軍のヒッターとなっているとは考えにくい。もしそんなことがあったら、たちまちスパイ扱いされるのだ。
なのに、老聖職者は、ヒッターであるティアルを「あの子」だと勘違いしている。ここでおかしいと、気づくべきだった。
しかしとにかくティアルは、何も考えずに聞き流していた。
その日はその後何も起こらず、暮れて行った。
アフェカ補佐官の部屋へ行き報告すると、アフェカは感心したように言う。
「やはり君をこの役において正解だった! じつはあそこの軍人の対応はひどいと噂がたっていてな。いや、君なら適任だと思ったんだ。期待以上だよ、上出来だ」
ティアルはここまで功績をたたえられたのは初めてで、少し照れたようにうつむいた。
「あ……ありがとうございます、恐縮です」
アフェカは高らかに笑って、ティアルの肩をたたいた。
「何を恥じ入っているのだ? 胸を張れ胸を! よし、当分あそこの担当は君に任せることにする。好きにやりなさい。報告にもいちいち来なくてよい」
「承知しました、アフェカ補佐官様」
ティアルは退室すると、囚人たちのところへ戻り、そこで寝ることにした。当分、ここが新しい生活の場となる。
(2016.2.6.更新)
読んでくださりありがとうございます。
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