長い銀色の髪は、風に揺られて朝日に煌めいていた。
「おいルー、支度はできたか」
後ろからかかってくるのは、女性のそれではあるが、低く抑えていて、やや年齢不詳の声だった。
「うん、今行くよ、リア」
ルーが振り返った先には、小柄な金髪の娘。彼女は、ルーの長い髪を見て顔をしかめた。
「長い髪は邪魔だろう。切ってやる」
「えっ、だめだよ」
間髪入れずに、ルーが自分の髪を守ろうと、両手で頭を押さえる。
「お前、何でもだめって言うな」
リアは呆れたようにため息をつくと、徐に懐を探る。
あった、と紐を取り出したリアは、警戒して後ずさるルーにつかつかと歩み寄った。
「結ってやる。後ろ向いて座れ」
渋るルーを椅子に座らせると、リアはルーの長い銀色の髪を手で梳いていく。
あいにく、櫛が置いてあるような気の利いた宿ではない。だが、初めて他人にこうして髪を梳いて結ってもらう感覚が、ルーにはくすぐったくて、思わず笑みがこぼれた。
あの森を抜けるまでに夜もすっかり更け、この街に着いたのは宿も戸を閉めて、人々が寝静まったあとだった。二人は仕方なく宿の外側で野営したのだが、目が覚めたらしい宿の主がそれに気が付いて、部屋も空いているからと中へ入れてくれたのだ。ルーは必死で走ったり、夜通し歩き続けた疲れからか、緊張感のないことに、部屋に入るなりベッドに倒れこんでぐっすり眠ってしまった。
道中リアが聞き出した限りだと、ルーの同胞であるアールガット族のエルフたちは、互いの持つ魔力を色で感知できるらしい。そのため、視界に入るほど近くに同胞がいると探し当てることができるという。
だが宿の部屋に入って、とりあえず窓を閉めてカーテンを引いてしまえば、一晩くらいは彼らに見つからずに凌げるだろうと踏んで、リアは固く戸締りをしたうえで、ルーの傍で浅い眠りについた。
「よし、これでいい」
ルーがリアの結った自分の髪束を触ってみる。首元に風が通って涼しかった。
「これからどこに行くの?」
そう聞いたのは、寒い北方へ向かうのなら、髪を下しておいた方がいいのでは、という考えが浮かんだからだった。
「そうだな。アールガットの村からできるだけ離れる……」
「じゃあ、西?」
「馬鹿言え」
昨夜は、アールガットから見て東の森を抜けてきたのだ。西に向かったら逆戻りになる。リアがそう説明すると、ルーは振り返り、きょとんと首をかしげる。
「アールガットは東方の端の村だよ?」
「あそこより東にも世界はあるんだよ。エルフが住んでないだけでな」
ルーの世間知らずぶりに、また一つため息をつくと、リアは気を取り直して言う。
「まあ東方はヒトもそんなにいないから、街と街の間が長い。その間は魔物の領域で、休める場所があまりないのは事実だな」
「じゃあ……」
ルーはおそるおそる、北? と尋ねる。リアは首を振る。
「いや。南部を通って西方へ行く。遠回りだが雪山越えよりは安全だ」
「西にはアールガットがあるんじゃないの?」
なおも見当はずれの発言をするルーに、だからなぁ、とリアは呆れかえる。
「お前自分で言っただろう、アールガットは東方の端だって。アールガットを避けるために南下するんだ。西方にはあたしの故郷がある。ヒト族の街だ。とりあえずは、そのアウルムを目指す」
その地名に、ルーの尖った耳がぴくりと反応した。
「アウルムって、西方の大都市だ! 僕でも名前は知ってるよ」
「そっか。まあ今からだと、アウルムにたどり着くころには雪が降ってるな」
「えー! 雪はやだ」
雪と聞いて、ぱっと腕を抱いて身を震わせ、ぎゅっと眉根にしわを寄せるルー。
「やだ、じゃないだろ。どうせ南部を通っていくから、しばらくは逆に暑いくらいだ、覚悟しとけ」
暑い、と聞いた今度は、新調した上着をぱたぱたとはためかせて、げっそりした顔をする。ルーの子どものようにくるくる変わる表情と仕草を楽しげに見ながら、リアは早起きして返り血を落としたマントを羽織る。
今まで彼は、子どものように扱われることもなく育ってしまったのだろうと思いながら、リアはルーの銀の髪を撫でてみた。
凛とした彼女が見せた優しげな眼差しに、ルーはふと動きを止めて魅入られる。金色の彼女の瞳は、ヒト族にしては珍しい色で、ルーには初めて見るものだった。
「……行くか。まずはここから南に向かったメランだ」
「う、うん」
ルーの表情に気づいたのか、彼の頭から手を放して、すっと背を向けて歩き出すリア。その後ろ姿を見ながら、ルーは昨夜の月に照らされた彼女の神々しさを思い出していた。
リアは、ルーの「光の力」、つまり太陽の魔力に惹かれてここまでやってきたと言った。あれは、どういうことなのだろう。エルフの力を色彩として見ることができるルーでも、リアの持つ何かはわからなかった。力を持たないものが、力にふらりと惹かれるものだろうか。多少なりとも力を持っていなければ、力の気配にすら気づかないのではないだろうか……。
「どうした、置いてくぞ」
大きめの声で呼ばれて、ルーは物思いから我に返る。
「あ、待ってよ!」
リアの出身が西方の大都市ということと、ルーの力がわかるということしか、今はわからなかった。
街を出ると、ふと視線を感じてルーが辺りを見渡す。その視界の端に、同胞の色を捉えた。
「あ……来てる、来てるよリア」
彼は怯えてリアにしがみつく。リアはそれをうざったそうに払うと、大剣を構え、ルーの指す方角に目を凝らした。
「あたしにはまだ見えない」
「え? だって君、僕の魔力がわかるんじゃないの?」
「お前のだけだ。お前の同胞の魔力はわからない。お前に比べて弱すぎるんだろうな」
不安そうなルーを一歩下がらせると、リアは胸に下げたペンダントをぐっと握った。そのペンダントを触ると、リアの周りの空気が凛と張り詰めるのがわかった。
――魔法の類だ。ルーがそう直感する。
「数が多い。逃げる準備をしておけよ」
「見えるの? というか、準備なんて……」
「走り出せるように心の準備をしとけ」
そう言うが早いか、リアは地面を蹴って、見えてきたエルフに突進する。
「えっ! ま、待ってよ!」
置いて行かないで、と訴えるルーの声も届かず、リアは追って来たエルフに向かって一閃をお見舞いする。
しかしリアが斬りかかったエルフは同じく大きな武器を構え、大剣を受け止めていた。彼女に関して情報が共有されているのだろう、今回の彼らは簡単には動じない。リアと剣戟を交えるエルフの後ろから、リアの死角をついてもう一人が襲いかかってくる。
「リア!」
ルーが彼女の身を案じて名を呼ぶ。魔法障壁を展開しようと、杖を構えて呪文を唱えるが、間に合わない。刃がリアに触れそうになった瞬間、祈るように目を閉じる。
「手、出さなくていいぞ」
聞こえて来たのは彼女の余裕たっぷりの声だった。
ルーが目を上げると、リアの大剣が昇り始めた太陽に閃く。
彼の銀色の瞳に映る斬撃は、彗星のごとく強かに、軽やかに、同胞たちの間を通り抜けて行く。
「ルー! 後ろだ!」
リアの剣捌きに見惚れていたルーが、その声で自分の後ろの気配に気がつく。咄嗟に、リアのそばに展開しようとしていた魔法障壁を、自分の背後に移動して展開した。
障壁で弾き飛ばされたエルフの同胞は、武器を背中に負ったまま抜いていなかった。彼の周りに集まった同胞たちも同様だった。だが、ルーがリアの方へ目をやると、先ほど斃したエルフ二人の他に、武器を抜いて構えたエルフが数人いた。ルーだけは、傷つけずに連れ帰るつもりなのだろう。太陽神ルグへの生贄には、傷があってはならないからだ。そのためには、なぜかルーを守っている大剣使いのリアという存在は邪魔なのだ。
「へえ、自衛できるじゃないか。あたしが助けなくてもいいな?」
ルーが魔法障壁を使ったのを見て、リアは薄情にもそう言うと、自分の周りに集まったエルフたちに意識を集中させる。
「ええっ、見捨てないでよ!」
リアと違って、ルーは戦い慣れしていない。相手が武器を抜いていないからといって、戦闘に特化しているわけでもない大きすぎる魔力だけを頼りに切り抜けるには、自信が足りなかった。心細さを感じながら、ルーは再び障壁展開の用意をする。
横目に見ると、リアは目にも止まらぬ速さで立ち回り、武器を構えたエルフたちを容赦なく斬り捨てて行く。
ルーの脳裏を自責の念が過ぎったが、同胞に敵意を向けられている今はとにかく戦って、逃げるしかない。ルーは頭を一つ振ると、障壁の展開に集中した。
ルーを捕らえようとするエルフたちは、彼を取り囲むように半円状に広がって、近づいてくる。その布陣は、ルーの記憶に新しかった。森へ逃げ込む直前、彼らがルーに魔法の縄をかけた魔術が発動する前と同じ形だった。
この魔術の穴は、網が捕獲対象に遠いと、網目が広くなるところだった。網目が絞まれば魔力すら通さない強力な膜になるが、それまでの間に摺り抜けられれば逃げられる。ゆえに発動時に絶妙な調整が必要で、彼らは二度も逃すまいと距離を詰めて来ているのだ。
ルーはそう考えて、杖を構えた。距離が詰まって、彼らが縄魔法を発動した瞬間、ルーは障壁の詠唱を中断して、リアの大剣を模した光の剣をその杖に纏わせた。
詠唱の中断は、本来なら許されていない。障壁を展開しようとしたルーの呪文で、彼らは網の魔術に作戦を調整したのだろう、光の剣を手にしたルーの奔放な力に、エルフたちは騒然とする。
エルフたちの縄の魔法はもう発動している。瞬く間に締まっていく縄の隙間を目がけ、ルーは光の剣を振り切る。縄がほどけた。続けざまに腕を振るうと、光の斬撃がエルフたちを襲う。エルフたちはめいめいに障壁を展開し、再びルーから距離を取った。
ルーを傷つけぬように、武器を仕舞ったままの彼らは、指示を仰ぐように一人のエルフに視線を集めた。
輪の中心にいた年長のエルフは、滅多に長老の屋敷から外に出なかったルーでさえ顔を知っている権力者だった。名は、たしかアグニといった。
そのアグニが、意を決したように顔を上げると、ルーに二、三歩近づいて、声を張り上げる。
「ルグの生贄よ。お前にまだ同胞を殺せない情があるのなら、なぜ村を捨てて逃げた?」
ルーは彼の言葉を聞いて、光の剣を握り締める。
殺せない情がある? まさか。
ルーは先ほどの自分の反撃を思い返す。必死に光の剣を振りぬいたはずだ。それが届かない距離まで、彼らが飛び退いただけで、自分が情を持って手加減をしたわけではない。自分にそんな器用なことはできない――……。
そう思った矢先、ある考えがひらめく。
ルーの瞳が揺れる。アグニの言葉を口の中で繰り返す。
(僕の魔力なら、さっきの攻撃で彼らを葬り去ることもできた……?)
そうだ。光の剣を具現化したからと言って、それによる攻撃範囲が物理的に定まるわけではない。魔力による武器に、さらに魔力を纏わせれば、範囲を広げることもできる。
魔術に制限があるとすれば、それは魔術師個人の魔力の限界だと、村の長老は言った。生まれ落ちた瞬間から太陽神ルグの生贄に定められたほどの、強大な魔力を持つと言われたルーなら、他のエルフにできない大きな魔術を扱えるはずだった。
自分の鼓動が、速くなるのが聞こえる。
――殺せてしまう。僕なら。
「ルー! そこを動くな!」
と、背後から彼女の声が響いた。ルーが思わず振り返ると、リアが大剣を引っ提げてこちらに向かってきていた。
リアの赤いマントが翻る。彼女がルーのすぐ隣を走り去る。何が起こったのかと、ルーは彼女がいたはずの空間を見つめる。そこには、同胞の血が滴っていた。何一つ動いてはいなかった。
ルーの後ろで、鋭い剣戟が鳴った。
視線を戻すと、アグニが背中に負っていた剣を抜いて、リアの攻撃を受け止めていた。
「――リア」
彼女を呼ぶだけで精いっぱいだった。
「リア!」
だめだ。これは僕の問題なんだ。どうして君が手を汚さなきゃならないんだ。
青年エルフの思いは、しかし、言葉には紡がれなかった。
アグニの剣がリアの腹を掠る。が、リアは顔色一つ変えずに、大剣を閃かせる。その迷いのない斬撃は、あっけなく年長のエルフに止めを刺した。
周りのエルフたちがざわめいて、リアから離れようとした刹那、リアの大剣は次のエルフを貫く。鮮やかな赤のマントが、鮮血に塗れる。あの赤は、殺してきた血を負っているのかとすら錯覚する。
ルーの銀色の瞳から、滴がこぼれた。
リアを前にしては、彼の同胞たちは為す術もなかった。エルフたちは一人残らず斃れた。
「なぜ村を捨てた、か」
返り血を拭いもせず、リアはアグニの亡骸に視線を落としながら呟いた。
「ルーは自由を求めただけだ。お前たちが奪ったものに、ただ焦がれただけだ。それがなぜいけない」
その言葉は、鋭く棘をもって紡がれた。
まるで、リア自身が受けた不条理に抗っているかのようだった。
「リア……」
ルーが、その背中に声をかける。リアは一呼吸おいて、ゆっくりと振り返った。ルーの頬を伝う涙を見て、リアはふっと悲しげに微笑む。
「お前は優しすぎるんだ。自分のために生きることを咎める奴は、斬り捨てて行けばいい。他人の我儘が通って、お前の我儘が通らないなんてことはないんだよ」
「でも……」
ルーが、喉まで出かかった言葉を呑み込む。
僕の我儘のために、どうして君が。
それを口に出す代わりに、ルーは涙を拭くと、リアに近づいた。彼女の脇腹にそっと手を伸ばす。アグニの剣によってついた傷は、浅くはなかった。ルーの白い手袋が触れようとすると、リアはすっと身を引いた。
「どうして?」
「いい。大丈夫だ」
「だめだよ」
痛いでしょ、と申し訳なさそうに顔をしかめると、ルーは白手袋を外して、リアの腕を引く。ルーが傷に触れ、呪文を唱えると、傷と手の間から光が漏れる。
手を離したときには、リアの傷はすっかり痕を消していた。
「……すごいな。ありがとう」
リアの素直な称賛と感謝の言葉は、ルーの傷心に沁みた。
「お礼を言うのは、僕のほうだよ」
すっかり日が空の真ん中に来た頃、ところで、とリアが口を開く。
「ルグの生贄っていうのは、お前だけなのか?」
ルーが首をかしげると、リアは続ける。
「お前が村を逃げ出したら、代わりに誰かが捧げられるってことはないのかって聞いてるんだよ」
リアの言葉に、ルーはまた逆方向に首をかしげてから、応える。
「それは、たぶんないと思う。僕みたいに強い太陽の魔力を持つエルフって、百年に一度しか生まれないんだって。だから貴重な生贄だったんだ」
「ルグ神に生贄が捧げられないときは、何か問題はないのか?」
「強い魔力を持つ子どもが十六歳になる年の初めに生贄の儀式をしないと、その年は日当たりが悪くなって、作物が育たないとかっていう言い伝えがあるけど……僕はよくわからない。世界中に散らばってるエルフの村のどこかで、必ず十年に一度は、太陽神じゃなくても、色んな神々への生贄の儀式があるんだって。ちょうど十年前は、西方の小さなウィスカっていう村だったらしい。ばあやが言ってた」
ふーん、とリアは考え込む。いずれにしろ、ルー以外のエルフが犠牲にされることは当分ないだろうということはわかった。
「とりあえず、お前が奴らから逃げられればそれで問題ないんだな」
リアの言葉に、ルーは足を止めた。リアがそれに気づいて、少し先へ行ったところで立ち止まり、振り返る。
なんだ、とでも言いたげな彼女の表情に、ルーは思い切って口を開く。
「あのね、リア。僕を助けたら、君には何か得があるの?」
愚直にそう尋ねる青年エルフに、金髪娘は少し目を見開いてから、ふっと笑って見せた。
「じゃなきゃ助けたりしないだろ。あたしはそこまでお人好しじゃないぞ」
「わ、わかってるよ、いや、その、リアはいい人だと思うけど。でも……理由を、聞いておきたいなって。僕にできることなら、やるから」
ルーの言葉に、リアは目を細める。
「お人好しなのはお前だ。馬鹿が付くほど正直な奴だな」
ルーは、はぐらかされまいと、じっとリアを見つめる。その真剣な面差しに折れたのか、リアは肩をすくめて、こう言った。
「あたしはお前をアウルムに連れて行きたいんだ。ある人に会わせるためにな」
「ある人って?」
知的好奇心の強い奴だな、と思いながら、リアは首を振った。
「今は知らなくていい。お前みたいな奴に秘密を漏らすと、いつどこで口走るか心配だ」
「えっ、大丈夫だよ、喋らないよ!」
ルーが慌ててそう言う。だが、あとから考え込んで、少々自信がなさそうに「たぶん」と付け加えた。リアは「それ見ろ」と呆れる。
「いずれにしろ、アウルムまでついてくればわかる。そこに行きつくまで、お前はあたしが守ってやるから安心しな」
リアはそれだけ言うと、くるりと向きを変えてすたすたと歩いて行ってしまう。
非常に滑らかにルーを守ると宣言した彼女の背は、やはり頼もしかった。それを見たルーは、今は彼女を信じて進むことに心を決め、「待ってよ!」と元気よく彼女を追いかけた。
―― 第2章 限界と決意 へ つづく ――
(2017.05.24. 公開)