オーロラって見たことある?

 夜空に明るい幕がかかってさ、ゆらゆらと動くんだ。

 星たちが隠れたり覗いたりしながら、まるで音楽会さ。

 ああ、音楽が聞こえることがあるんだ。ヒトより少しだけ、耳がいいからね。

 

-- 極光の奏でる音色。ある少年が、旅人のハーフエルフに聞いた話。



 僕らの町に、不思議な旅行者がいる。

 旅人で、ずっと遠くから旅をしてきて、少しのあいだこの町に留まるのだとか。

 また旅立つときには、もう二度と会えないくらい長く姿を見せないんだって。おばあちゃんに聞くと、一生に二度、その旅人に会えたら、その人は幸福なんだとか。

 

 よくわからないな、と僕は思う。

 

 おばあちゃんが、僕みたいな子どもの頃に出会ったというその旅人は、長い年月を経ても、姿が少ししか変わっていなかったという。──年を取るのが遅いのは、彼女がハーフエルフだからなのだと、誰かが言っていた。

 

 彼女はいつも決まった寝床を持たない。その日その日に関わった人の家に泊まったり、気分で野宿していたりする。小さな町だからといって、宿がないわけではない。むしろその宿に一か月分のお金を払っているのに、そこにずっと泊まっているわけではない、という変わり者なのだ。

 

 野宿をしている彼女を見つけて、聞いたことがある。「なんで宿にずっといないの?」と。

 僕の問いかけに、彼女は星を見上げながらぼんやりと答えた。

 

「なんでだろうねえ。僕はほら、こういう感じだろ? 一つ所に留まるのが苦手なのさ」

 

 こういう感じ、というのが、どういうことなのかはよくわからなかった。

 でもなんとなく、彼女はそういう感じなんだな、という納得もあったから、それ以上は聞かなかった。 

 

「ねえ、それより子どもがこんな時間に外にいて平気なのかい」

 

 ふと問われて、僕は曖昧に首を振った。

 

 僕は家族に黙って、夜にこうして外を散歩している。

 夜が怖くて眠れないんだ、なんて、誰にも相談していない。母さんに言ったら閉じ込められるし、おばあちゃんに言えば死んじゃうくらい心配される。父さんに言えば気が弱いと怒られるし、兄ちゃんに言えば赤ちゃんみたいだってバカにされる。

 

 僕の微妙な反応を見て、彼女はくすりと笑った。

 

「君、ユーリアの孫だろ。あいつが君くらいの歳のことよく覚えてる、そっくりだ。顔立ちも、何か言いたいことがあるのに、そうやってもじもじするところもね」

 

 ほんのお姉さんくらいのひとにそう言われるのがなんだか衝撃で、僕はどう返したかも覚えていない。おばあちゃんの言ってたことは、どうやら本当らしい、ということだけが、頭の中を駆け巡っていた。

 

「昔もユーリアの泣き言に付き合って、夜遅くまで起きてたことあったなぁ」

 

懐かしそうに独り言を漏らす彼女は、見た目に反して、おばあちゃんっぽい。うちのおばあちゃんもよく昔の話をしてはしみじみしているけど、まるでそういうときの口ぶりだった。

 

 僕があっけに取られていると、彼女は「とにかくさ」と切り替えて、まじめな顔をした。

 

「僕はあと半月もすればここを発つ。君がよければ、君の秘密も持って行くよ。この村の誰にも言えないことがあるなら、僕に話してごらん」

 

 僕は、少し考えた。

 

 だって、おばあちゃんはともかく、僕は彼女のことをよく知っているわけじゃない。旅先で夜眠れない男の子がいたとか、バラさないだろうか。本当に秘密は秘密として、誰にも話さないだろうか?

 ……あと、ここは村ってほど小さくはない。けっこう、細かいところは気にしないひとなんだろうか。

 

 不安要素のほうが強くて、その時はなんでもないふりをして、家に戻った。

 

 

 「ねえ、おばあちゃん。ハーフエルフさんに昔、なんて言ったの」

 

 翌日、僕が聞いてみると、おばあちゃんは不思議な顔をした。

 

「なんて言ったって、何が?」

「泣き言を聞いてあげたって言ってた。なんの泣き言だったの?」

「はて、なんだったかしらね。いろいろあったと思うけど覚えてないわ。あの子覚えてるの?」

 

 きょとんとするおばあちゃんに、僕はなんとなくがっかりした。

 あの子っていうのは、お姉さんのことだろう。

 

「聞いてない」

「覚えてないんじゃないかしら。長く生きてるとね、細かいことは忘れてしまうのよ。子供の頃なにに悩んで、怖がっていたのか、もうわからないものね」

 

 それより、いつあの子と話したの、と聞かれて、僕はしどろもどろになってしまった。友達と遊んでたとき偶然会って、とか、適当な嘘をついて切り抜けたけど、その日はじりじりと胸が痛んだ。

 

 わからなくなるわけがない、と思った。

 夜になると、家の角っこの暗い場所から、何かが現れるんじゃないかって恐ろしくなること。嘘をつくと、眠れなくなるくらい胸が痛いこと。道を歩いていて、お兄ちゃんが僕より長い脚でずんずん先へ行ってしまうと、どうしようもなく切なくなること。

 おばあちゃんは本当に、覚えていないんだろうか。僕と同じように、悩んだり、眠れなくなったりしなかったのだろうか。

 

 その日の夜も眠れなくて、こっそりと家を抜け出すと、ハーフエルフのお姉さんの姿を探した。

 でも、その日はどこか別の家に泊まっていたみたいで、見つからなかった。

 

 次の夜も、その次の夜も、僕はひとりぼっちで彼女を探した。

 来る日も来る日も、彼女には会えなかった。

 そしてある夜、雨に降られて濡れて帰ったら、とうとう風邪を引いてしまった。

 

 夜な夜な家を抜け出していたことに、母さんは気づいていたみたいだった。母さんどころか、父さんも、おばあちゃんも、兄ちゃんまで知っていた。

 昼に眠くて横になっていても誰にも怒られなかったことに、ようやく僕が気づいた。

 

「お前の後ついて歩いてみたことあるんだぜ」

 

兄ちゃんがあっけらかんと言った。

 

「悪い奴に会うとか、悪いことするとか、そういうわけじゃなかったから、特に心配してなかったけど」

 

 なんだ、それなら。

 それなら、聞いてくれれば理由を話したのに。兄ちゃんと一緒に夜を歩いたって、よかったのに。

 

 湧き上がってくる気持ちがぐちゃぐちゃになって、喉のあたりに押し寄せる。だけど、けほ、という乾いた咳だけが出ていって、ちっとも楽にならなかった。

 

 母さんが布を水に浸して、頭に置いてくれる。

 

 よくわからないけど、なんだか無性に、ハーフエルフのお姉さんに会いたかった。

 

 

 「ハーフエルフのお姉さん」

 

 彼女が町を離れる三日前、僕の家の近くで野宿している彼女を見つけた。

 寝込んだあとはすっかり夜に出歩くのをやめていたから、夜風が冷たくて仕方なかった。

 

 僕が声をかけると、彼女は軽く手を挙げた。

 

「ちょっと見ないなと思ってたんだ。夜の散歩はやめたのかい」

 

 焚火に寄るように手招きしてくれるのに甘えて、僕は速足で近寄って、お姉さんの隣をせしめた。

 

「雨が降った夜あったでしょ。風邪ひいたんだ」

「ああ、そいつは大変だったな。今はどう?」

「もう大丈夫。夜も、眠れる日もあるし」

「よかった。よく寝る子は背も伸びるんだよ」

 

 そうなんだ。やっぱり、長く生きてるひとはいろいろ知ってるんだな。

 よく寝たら背が伸びるんだ。じゃあ、うんとたっぷり寝たら、兄ちゃんと同じくらい大きくなれるかな。

 

「そしたら、兄ちゃんに置いて行かれないかな」

 

 言葉が口から滑り出ていた。はっとしてお姉さんを見ると、彼女はびっくりするくらい優しい目をして、僕を見ていた。

 

「そうだね。並んで歩けるさ」

 

 不思議な感覚だった。前に会ったときには、何も話さなかったのに、彼女は僕のことをなんでも知っているみたいだ。

 やわらかく微笑む彼女を見ていると、僕の胸にあったじりじりとぐちゃぐちゃが、少しほどけていく気がした。

 

「ねえ、お姉さん。おばあちゃんの小さい頃の泣き言、覚えてるの?」

 

 突然の僕の質問にも、彼女は真面目な顔で答えた。

 

「覚えてるさ。秘密にするってユーリアと約束したから、君にも教えないけどね」

「おばあちゃんはもう覚えてないって。長く生きてると、子どもの頃の悩みなんか忘れちゃうんだって言ってた」

「そういうこともあるさ。だけど同じ年月が経っても、僕は覚えてる。それよりずうっと昔の、僕が小さかった頃の悩みだって、僕はちゃんと覚えてる」

 

 おばあちゃんとは違う反応に、つい前のめりになって聞いてしまう。

 

「お姉さんの、子どもの頃の悩みって?」

「そうだなぁ」

 

 彼女は、内緒だよ、と前置きして、いろいろ話してくれた。

 

 友達より大きくなるのが遅くて、置いて行かれちゃうのが寂しかったこと。お母さんのこともお父さんのこともよく知らなくて、ひとりぼっちだったこと。優しくしてくれた人たちが、彼女が恩返しできるくらい大きくなるまで、待っていてはくれなかったこと。生きるために、命を食べなきゃいけないこと。火がないと夜は寒いし、怖いこと……。

 

「そういうのを僕は、ずっとずっと覚えてる。ユーリアの悩みも、よく覚えてる。僕がハーフエルフだから違うところもあるけど、小さな悩みも、大きな悩みも、少しずつ似てるんだ」

 

 「たとえば?」と僕がさらに訊くと、ふっと笑って、「詳しくは言わないよ?」といたずらっぽい声で言われる。かわされた。

 

「だけど、たとえば──そうだな。これからどうなるかわからない、ってこと。真っ暗な世界を、ひとりぼっちでみんな歩いてるってこと。でも、夜は暗いけど、曇っていなければ星が見えるだろ? そういうふうに、ほんの少し明るいものを頼りにして、みんな歩いてるんだ」

 

 お姉さんの言葉は、不思議だった。まるで風みたいに僕の胸の中に入ってきて、もやもやを全部晴らしてくれそうだった。

 夜の散歩は、それなら、僕の人生そのものだったのかもしれない、と思った。彼女の話は遠いようで、すごく深いところで「知っている」と思う、そんな感触のある言葉だ。

 

 彼女が子供の頃の悩みを覚えていて、おばあちゃんの泣き言を覚えていて、僕みたいな子どもにもわかるように話してくれる。それが、僕には嬉しかった。

 

 それから、僕もいろんな話をした。お姉さんの真似をして──もしかしたらおばあちゃんの真似をして、秘密だよ、と言ってから。

 

 夜になると、暗い場所から何かが現れるかもしれないって怖くなること。

 嘘をつくと、そのあとずっと胸がじりじり痛いこと。

 兄ちゃんと歩いていて、歩幅が違ったり、置いて行かれると切ないこと。

 

 そうだね、と彼女は軽く頷きながら、聞いてくれた。

 お姉さんだから、何か助言をくれるかな、と思っていた。そういうときはこうすればいいんだよ、とか、そんなのはなんでもないことだよ、とか、ふつうの大人ならそう言うところだ。

 だけど、お姉さんはそういうことは一つも言わずに、静かにこう言った。

 

「その気持ち、ちゃんと覚えておくといい」

 

 僕はちょっと驚いて、黙ってしまった。お姉さんは続ける。

 

「ユーリアみたいに忘れられるなら、それでいい。だけど、君はたぶんそうじゃない。君はきっと大人になっても、君みたいな子どもの、夜の星になれる人だ。だから、忘れたふりなんかしなくていい」

 

 そう言って、彼女は僕に〝おまじない〟をくれた。

 

 

 「おばあちゃんに会っていかないの?」

 

 彼女が町を発つ日。

 

「ユーリアはもう、僕との別れを惜しむ必要はないよ。君みたいな子が傍にいるんだから」

 

 たしかに、おばあちゃんはあっさりしていた。一生のお別れなら、子どもの頃にしたから、とか言って。でも、僕がいるから、というのはよくわからなかった。

 

「そういえば、お姉さんこの町のこと村って言ってたよね?」

「ああ、もう今は村って言わないんだって、若いやつに怒られた。昔は村だったのに、立派になったよなぁ」

 

 なったよな、なんて言われても、僕はわからない。この町が町になってから生まれたんだから。

 

 他愛ない話をしながら、町の出口まで見送る。僕以外にも、何人かの子供と、宿の家族と、1か月の間に関わった人たちがぽつぽつと見送りに来ている。

 

「次はいつこの町に?」

「わからない。また会えたら嬉しいね」

 

 次々に声をかける人がいて、お姉さんはどれに対しても気さくに応える。

 

「次はどこに行くの?」

「わからない。風しだいかな」

「風しだいって?」

「僕の気分によるってことさ」

 

 あっという間に出口に着いてしまう。まだ成人に届かない僕は、町の外に出られない。

 彼女の目を見たら、「待って」って言ってしまいそうで、足元を見ていた。

 

 彼女の手が、僕の頭をわしわしと撫でた。

 

「寂しいかい。それも覚えておくんだよ」

 

 大丈夫だよ、また会えるよ、なんて、周りの大人が言うようなことは、お姉さんは言わない。

 それが嬉しくて、寂しかった。

 

 それから見送りに来た人それぞれに声をかけて、お姉さんは行ってしまった。

 風みたいな人だった。

 

 その夜は不思議と眠れた。お姉さんがくれたおまじないがよく効いたのかもしれない。

 お姉さんのおまじないは、この町よりもっと北の果ての夜空に響く、光と音の話だった。

 

 ──眠れない夜はいつでもやってくる。僕はそんなとき、北の果てで見たオーロラを思い出すんだ。

 

 

 ──オーロラって見たことある?

 

 夜空に明るい幕がかかってさ、ゆらゆらと動くんだ。

 星たちが隠れたり覗いたりしながら、まるで音楽会さ。

 

 そうして、すぐに消えて行ってしまう。長いこと待っていても、やってこないこともある。

 

 幕って言っても、布じゃないんだよ。光の幕。

 なんて言ったらいいのかな、うんと薄くて透明で、光輝いている幕が、ゆらゆらと夜空を照らすんだ。

 いろんな色があるよ。緑だったり、赤かったり。それだけじゃ足りないくらい。虹に似てるかも、でももっともっと強い光だ。

 

 

 ……そんなことを、彼女は静かに話してくれた。

 声音は静かだったけど、子どもみたいに、瞳を輝かせていた。ひょっとすると、焚火の光がゆらゆらと反射したのが、そう見えただけかもしれないけど。

 

 とにかく、オーロラって言うのが、お姉さんをここまでわくわくさせるすごいものなんだということだけは、分かった。

 

「音楽会って、星が歌うの?」

「そうだよ。歌うし、楽器を奏でる。遠い空から、その魂を燃やして音を響かせているんだ」

「うそだ。聞こえるわけないよ。『もののたとえ』でしょ?」

「おお、そんな言葉知ってるのか。すごいなユリス」

 

 おばあちゃんの秘密をずっと守っているから、嘘をつかないひとなのかと思ったけれど、ちょっとふざけてみせることもあるんだな、なんて、僕が思っていると。

 お姉さんは、「そうだよな、ヒトには聞こえないものだから」と独り言を言った。

 僕はびっくりして、お姉さんを見つめた。

 

 もしかして、聞こえるの。お姉さんには、星の歌が。

 

 それって、どんな歌なの?

 

 聞きたかったけど、なんとなく、口からは出なかった。だけど、僕の視線に気づいたお姉さんは、ちゃんと汲み取ってくれた。

 

「ああ、音楽が聞こえることがあるんだ。ヒトより少しだけ、耳がいいからね」

 

 焚火の音が、ぱちぱちと鳴る。

 こういうのが、お姉さんの耳には、音楽になって届くのだろうか。

 

「エルフっていうのは、自然の声が聞こえるらしいんだ。僕は、いつでも聞けるわけじゃないんだけど。でも、極北の町で聞いた星の歌と、オーロラの音は、すごかったよ」

 

 星の歌と、オーロラの音。

 

 どんな音楽なんだろう。どんな光だったんだろう。またたく星は僕でも知っているけど、オーロラは知らない。

 北の果ての星空にかかる、虹色の光の幕。

 

 お姉さんが見て、聞いたその光景を思い浮かべて、どんな世界なんだろうって想像するだけで、真っ暗な夜は、あたたかな世界に様変わりした。

 

 もう、夜が怖いなんて思わないかもしれない。

 思ったとしても、お姉さんのおまじないがあれば大丈夫かもしれない。

 

 夢の中で、僕は彼女の言葉を思い出していた。そして、こう答えた。

 

 ──ちゃんと覚えておくよ。

 

 いつか僕が大人になって、子どもが夜が怖いって泣いたときには、僕もハーフエルフのお姉さんが話してくれた、オーロラの話をしてあげようと思うんだ。

 

 お姉さんが僕の、夜の星になってくれたみたいに。

 


(更新日:2023.01.15)