「起床―、起床―」
上官が眠そうに触れまわる。ティアルはというと、聖職者にあてられた牢獄の番をしていたので寝てはいなかったが、眠くなかった。
「おう、朝だな、ティアル」
その眠そうな上官が、ひょっこり顔を出した。ティアルは立ち上がって敬礼する。
「おはようございます、ルマル上官」
「ここ、評判好いそうじゃないか。期待してるよ、新人」
「はい」
上官は手を振ると去って行った。
ルマル上官はティアルも習ったことのあるヒッターの教官だ。
毎朝の起床の号令係になったわけは本当によくわからないが、彼の声が他の人と比べてかなり大きいのは間違いない。
新人、ね。あの上官も、おれを「人」と言うのか。
この任務をもらってから、一部の人には本当によくしてもらっている。そのかわり、敵も増えたが。
「おいヒッター、ここちゃんと掃除して偉いなぁ」
そう通りすがりに言い捨て、ついでにゴミを獄中に投げ込む軍人もいるのだ。そのゴミを片付けていると、老聖職者が話しかけてきた。
「お前さん、名はなんだったね?」
「ティアルです」
「そんな名だったかの……。もっと長かったような」
どうせ『あの子』の話だろう。
「おお、そうじゃ思い出した。ティアル=シリル=レオザンといったかな」
名前も一緒なのか。名字は……おれのは分からないが。
「お前さんは、やはりわしの孫じゃ」
「は?」
ティアルは意表を突かれた。『あの子』は血縁者か知り合いかと思ってはいたが、孫って。
「あなたのような聖職者の孫が、ヒッターになるなんておかしいでしょう」
ティアルがあわててそう言うと、老聖職者は「うむ?」とティアルを見上げた。
「お前さんは……ヒッターなのかね?」
この時初めて、老聖職者はティアルをヒッターと認識したようだった。
「はい、気づいていらっしゃいませんでしたか」
ティアルは右肩の刻印に手をやった。
「これはヒッターの証です」
「すまんのう、目がほとんど見えないものでな」
老聖職者はそう言って低く笑う。反対にティアルは、驚いた顔をする。
「では……、おれが見えないのですか?」
「うっすらとは見える。しかし顔がはっきり見えんのう……」
じゃあ、なぜこの人は、おれが誰かによく似てると言ったのだろう? 聞きたかったが、なぜか言いだせなくて、ティアルは黙っていた。
「もっとこっちへ来てくれんか。ティアル」
ティアルは言われるまま、彼に近寄った。
「ここに入ってきてはくれないかね」
ティアルは危険な行為だと分かっていたが、牢の中に足を踏み入れた。普通に考えれば番人はこんなことはしないだろう。だが、この時には、ティアルはこの老聖職者のことをかなり信用していた。
「お前さん、テレム国のことを知っているかい」
テレム国。
「大昔に、滅びたとか」
「いいや、そんな、大昔という昔ではない。ほんの、八年前のことじゃよ」
「はあ。それでその、テレム国がどうしました?」
「その前に。お前さんは、レシェムの息子ではないかね」
「レシェム?」
聞いたことがあるような……。
「お…おれは父親のことは知らな――」
ティアルは老聖職者に言いかけたが、彼に遮られた。彼はティアルの目を見て、慎重に言った。
「彼は殺されたのだよ……このザノア帝国に」
次の瞬間、ティアルの脳裏に何かが過ぎった。
……あれは?
「思い出しただろう? ティアル=レオザン」
「れ……レオザン?」
ティアルは自分の名字を覚えていなかった。
「それは本当におれの名字ですか」
「名前のティアルしか覚えていないのかね。お前さんがテレム国の出身だったことや、父親のこと、テレムが八年前に滅びたときに、お前さんが軍に入れられたこと……ほかにも」
「やめてください」
ティアルが混乱して遮る。一気に情報が入ってきて、整理し切れていないのだ。
「やめてください。おれは……おれはただの」
「ただの下位ヒッターなどではありません」
今度は若い方の聖職者。
「君はテレムの偉大な大祭司、レシェムの一人息子なのです。君には使命がある。テレムを復活させ、人々を救わなければならない」
「いきなり、そんなことを言われても……おれには何もできません」
ティアルは静かに頭を抱える。外に聞こえて、誰かが入ってきてはまずい。そういうことは、ティアルも分かっていたのだ。
今、二人の聖職者たちが話していること。これはかなり重大な――危ない内容だ。そして、彼らと、ティアルの生死もかかっているだろう。
「もう、その話はしないでください。あなたたちの命のためです」
「我々はもう覚悟は決めているさ。お前さんに、あとを託すからな」
老聖職者の言葉にティアルは静かに首を振る。
「おれには分からないことだらけです。あなたたちに生きていてもらわないと、困りますから」
ティアルはうすうす、この話の先が見えていた。軍を離反せよ、ということだろう。しかし今動くには、情報が少なすぎる。ティアルは聖職者二人に、くれぐれも命を捨てるような真似をしないようにと忠告した後で、何事もなかったかのように任務に戻った。
その日はその後何も起こらず、暮れて行った。
だがその夜。ティアルは浅い眠りの中、夢を見た。
自分は雪の中を走っているのだ。そして、なにかとても高い建物に着くと、あの老聖職者の容貌をすこし若くした感じの男が出てきて、自分の手を温めてくれた。
「冷たい手だ」
「おじいさん、寒い」
「中に入ろう、な、ティアル」
真夜中だろうか、その時目が覚めて見回すと、周りに起きている人間の気配がなかった。
ティアルは暗闇の中、老聖職者がいるはずのほうを見た。
今の夢……。
あれは、おれの記憶の中にあった光景なのだろうか……?
* * *
翌日、アフェカが様子を見に来た。
「ティアル」
「はい」
振り向くとアフェカが立っていたので、ティアルは敬礼した。
「順調かね」
「はい」
アフェカはふっと微笑むと、ティアルの肩をたたく。
「もう監視の必要はないのだが、君に会いたくて来てしまった。もう戻らなければ。軍事会議があるんでね。では、今日も頼むよ」
ティアルが敬礼すると、アフェカは満足そうな顔をして出て行った。
その日から、元聖職者たちはティアルには話しやすいと感じたのか、いろいろと他愛のない話をするようになった。
他愛のない話ではあるが、そのどれもが、軍を出たことのないティアルには新しかった。話し相手になってやれと言われたものの、こちらのほうが得る物が大きいのではないかと思うほどだった。
特に気になった話が、『神』の存在。聖職者という立場から物を喋ると、「神」という単語が多く出てくるのだ。ティアルも「神」という単語は知っているが、聖職者と神のつながりを全く認識していなかったティアルは、彼らの話についていけないことがあった。
ティアルは老聖職者のほうを見た。
彼は今日一日、ずっとティアルのほうを見ていた。昨夜の夢。あの男性は彼なのだろうか?そして雪の中を走っていた少年は、本当に自分だったのだろうか。
結局ティアルは彼に話しかけず、彼からも話しかけられなかったので、一日中、何も言葉を交わさなかった。その日が暮れる頃、再びアフェカが様子を見に来た。
「働いてみてどうだね、ティアル。ここの仕事は」
「アフェカ様。はい、とても働きがいがあります」
「ほう、どんなところが?」
「囚人とはいえ、経験豊富な人たちです。話を聞いていると、楽しいというか、少しそんな気分になります」
アフェカはくすっと笑うと、囚人たちを見まわしながら言った。
「君でも楽しいというのがわかるかい」
「分かるようになったんだと思います。この人たちの世話は、楽しいです」
ティアルはいつもより柔らかい表情をしていた。
「ティアル」
「はい」
「その気持ち、大切にしまっておきなさい。誰にも話さないように。話してしまえば、君は『感情のある使えない暗殺者』として拘束されるだろうから」
ティアルの目が大きくなった。
「……どういうことでしょうか」
「君は軍人志望で入った子だったが、ヒッターとして優秀に育つと見込まれて訓練を受けた。見込まれた理由の一つは、……感情が薄かったことなのだ」
それを聞いたティアルは哀しそうな表情を浮かべたが、それは一瞬だった。
「わかりました。おっしゃるとおりに」
「くれぐれも。頼むよ。私は、君にかけているからね」
「承知、しました」
アフェカが去った後、ティアルは二人の聖職者たちの牢の近くに座った。
「お若いの。感情があることは恥ずべきことではない。神が私たち人間に与えられた特権なのだから」
「神が……? …でも、おれには昔から感情がなかったんでしょうか」
ティアルは二人に寄りかかるようにして、格子にもたれかかった。若い方が言った。
「君は確かに、表情をあまり見せない子でした。でも私には、笑顔や泣き顔を見せてくれましたよ。八年前の話ですが」
「…では、いつから?」
「きっとザノアの軍人となってからでしょう。父を亡くしても、私たちのもとで育てられたのが、君には幸福だった。それが突然壊された……それで、感情を表現する気も起きなくなったのでしょう」
ティアルは外に誰もいないのを確認して、聖職者たちに、静かに言った。
「――八年前――いえ、テレム国のことや、父とおれのことを、教えてください」
それを聞いて二人ともほっとしたように顔を見合わせ、鉄格子越しに、若い聖職者の方が話し始めた。
* * *
君の父上であり、私の兄でもあるレシェムは、テレム国のとても敬虔な大祭司でした。
八年前から、テレム国はザノアに侵略され続けて、三年前にほぼ滅びた。昔から神に忠実な国でしたが、神にそむいたザノア帝国によって侵略されたのです。滅ぼされる前は、実に神に祝福され、幸福な国だった……。
テレムの首都、ティムナにある中央大教会、ベト=アノト教会の大祭司だったレシェム大祭司は、ザノアにもこの幸福をもたらすべきだと考え、ザノアに宣教に行きました。
このレシェム=ポール=レオザンが私の兄であり、君の父です。こちらの老聖職者はゼナン=パルティア=レオザン。私たちの父で、母が亡くなってから祭司の試験を受け、五年でベト=アノト教会の主教にまで昇進しました。
兄、レシェムは純粋に宣教に行っただけでしたが、テレムが祝福を受けていることに嫉みを持っていたザノア帝国は、彼をスパイ扱いして捕らえ、軍が殺してしまった。そのとき、君は三歳でした。レシェムは出かけ際、君を私たちに預けて行きました。レシェムからつけられた名前は違うが、洗礼名として『アノト=ティアル=シリル』と名付けられた君は、三年間、聖職者となった私の養子となり、合計六年間、ベト=アノト教会で育ったのです。
しかし君がちょうど六歳になるころ、ザノア帝国はテレムの密偵者がまた現れたと偽装した情報を流し、帝国民の怒りを掻き立てると、その帝国民の後ろ風を受けてテレムを滅ぼそうと本格的な進軍を開始した……実際には迷い込んだテレム人だったのですが、彼は拷問にかけられたすえ殺されてしまいました。とにかくこちらには何の準備もなかったために、すぐにテレムは陥落、国民の男性ほとんどが捕虜としてザノア軍に連れて行かれた。奴隷として使いようのない者は殺し、私たち聖職者は手にかけると神の罰が下るからと、この牢獄で死を待つばかりになった。
君はレシェムの一人息子です。ザノア軍に命を狙われてもおかしくなかった。それで、私は事前に君を、ザノア人と偽ってザノア軍に入れたのです。
軍の中にいれば、軍に命を狙われることはありませんからね。
* * *
テレムの聖職者シオン=ピーター=レオザンが語ったティアルの故郷の話は、そんな内容だった。彼はティアルの叔父にあたり、老聖職者ゼナンのほうは祖父にあたるのだ。
レシェム大祭司。おれの父……。
「おれの、母は?」
シオンがとても優しい目になる。
「君を生んだ際に体が弱り、数日後に亡くなりました……。とても優しい人でしたよ、ホサナ姉さんは」
ホサナ、というのか。
「ザノアは、テレムを滅ぼして……国民を奴隷とした。神の民なのだから、乱暴は許されることではありません」
ティアルの目には、今までなかった強いものが見て取れた。
「おれに」ティアルはシオンとゼナン――叔父と祖父を見て、こう言った。
「おれにできることはないですか。テレム国の民の暮らしを取り戻すために」
二人は顔を見合わせ、うなずいた。シオンが、口を開く。
「君にやってもらいたい。ただ、今はその時ではありません」
ティアルは番人用の杖を握りしめ、二人を見つめた。
「ティアル、君は今、ヒッターとしてザノア軍に所属しています。その立場を利用するのです。今君がヒッターとして上層部に注目されているのは、きっと神の取り計らいによるものです。軍の信頼を得ておいて、機を見て離反するのです――機を待ちなさい。必ず、神が導いてくださいますから」
「分かりました」
ティアルはうなずくと、何事もなかったかのように任務に戻った。
何かと思って二人は黙った。すると軍人たちが聖獄の前を通った。
「よおティアル。暗い中ご苦労だな」
今度の軍人はゴミを投げてはこなかったが、石を投げてきた。
「ねぎらいの言葉ありがとうございます」
ティアルは握っていた杖で石をはねのけながら、無表情で言った。ふん、と面白くなさそうに、軍人たちは通り過ぎて行った。
「ティアル」
老聖職者――ゼナンが、声をかけてくる。
「お前さんは、人の気配を感じ取るのが上手じゃな」
「はい、訓練で何度もやらされたので。――それに、人を斬る訓練もしています…」
ティアルは外に人の気配がなくなったのを確かめてから、二人に向きなおった。
「ヒッターは、人を殺せと言われれば、殺さなければいけない立場です。もしそう言われたら、おれはどうしたらいいでしょうか」
叔父と祖父は、肩に手を置いて言った。
「その任務を与えられた時が機だと思いなさい」
「その任務を遂行したように見せかけ、その人物を助けてテレムへ逃げるのじゃ」
ティアルが首をかしげる。
「テレムへ? 街は残っているのですか」
シオンはうなずく。
「実は被害が少なかった教会都市が残っています。海のほう、テレム最後の砦です。市民の多く、とくに女性と子供は地下に残って、ザノア軍には発見されなかったと伝え聞いていますから」
ティアルはうなずくと、確認した。
「では、暗殺者であるヒッターとして任務を受けた場合、それを機に軍を離反して、そのテレムの教会都市に逃げればいいのですね」
ゼナンがうなずく。
「そうじゃ。その都市はディルアン。シェフェラ教会を中心とする都市じゃ。シェフェラ教会は軍に存在を知られてはおるが、神の加護によって陥落しないで保っておる。軍は攻撃をあきらめているから、そこに逃げればなんとかなるじゃろう」
ディルアンの、シェフェラ教会。
「ありがとう」ティアルはすこし笑顔になると、また前を向いた。人の気配がしたのだ。
しばらくして、コツコツという靴音がした。高官らしい。
「ティアル、邪魔する」
ティアルは聞いたことのない声だった。入口に、アフェカとその人が立っていた。
「ティアル、ご紹介しよう。こちらが参謀長官、シュアル様だ」
ティアルは見とれていたが、アフェカの声にハッとして、最敬礼をした。
「ティアルです」
「うむ。ここの評判はとてもいいそうだな」
「恐縮です」
シュアルはティアルに近寄ると、顔をあげさせた。
「ティアル、君はヒッターだが長い間上司のおもちゃにされてきた。だがそれも終わりだ。ここまでよく耐えた」
「は……はい」
シュアルはティアルの肩に手を置く。
「この任務と、この次の任務を同時に与える。これを全うできれば、暗殺者としての正式な任務を与えよう」
「……はい」
「明日から、君に部下を配属する。新しいヒッターだ。よく世話し、教育してやれ」
「分かりました」
ティアルがうなずくと、シュアルもうなずいて手を離した。ティアルが最敬礼をするとシュアルは牢獄を出て行った。アフェカもシュアルについて去った。
新しい任務が終われば、『機』が来る……。
これまで感じたことのない何かを感じ、ティアルは拳を握りしめた。その拳を胸にあてると、唯一知る親戚の二人を振り返った。
二人はティアルの目をしっかり見てうなずいた。
「焦らんでよい。神が導いてくださる」
「君には神様がついていらっしゃいます。……しっかりやりなさい。あとは、神と君に任せましたよ」
その夜、ティアルは眠った。体を休めたほうがよいと判断したのだ。どうせ夜、起きているのは番人くらいなので、眠っても罰を受けるわけではない。囚人が逃げだすというようなことは起きないのがわかったので、そうしたのだ。
「のう、ティアル」とゼナンがささやく。
「はい」
「またおじいさんと呼んではくれないかね」
ティアルは一瞬黙ったが、かすかに残っている昔の記憶を思い出して言った。
「おやすみなさい、おじいさん」
「おやすみ」
ゼナンの横でシオンが動く。
「じゃあ、私にも」
ティアルは少し体を起してシオンを見た。
「おじさん、おやすみなさい」
「うん、お休みティアル」
ティアルの目には、もうヒッターらしい冷徹な部分は消えていた。かわりに、郷愁というのか、そういう穏やかなものが浮かぶ目になっていた。
(2016.3.12.更新)
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